聖書福音集会は、聖書の話をお聞きになりたい方々が来られて、幸いなお交わりの機会も持つことができました。
お越しくださいました方々に心からお礼を申し上げます。
集会では、毎週日曜日の午後2時から福音集会を開いておりますので、続けて聖書の話をお聞きになられますようお勧め申し上げます。
川越キリスト集会では、聖書が今日の私たちに何を語りかけているのかをお伝えするために、毎週 日曜日の午後2時から1時間ほどの福音集会を開いています。
少しでも聖書に興味をお持ちの方や、聖書を読んでみたいと思っている方は、ぜひ集会にお越しになり、聖書の話に耳を傾けてみてください。
集会のあとにお茶を飲みながら、ご質問や疑問についてお話することもできます。集会はすべて無料です。また強要するようなことはまったくありませんので、安心してお越しください。
福 音 集 会
日曜日 午後2時から、聖書から分かりやすく福音(良い知らせ)をお伝えしてしています。
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」とイエス・キリストのことばが記されています。
キリストのもとには何があるのか。私たちとどんな関係があるのか、ぜひ聖書のことばに耳を傾けてお確かめください。初めて聖書を開く方も遠慮なくお越しください。
聖書は集会に用意しています。何も持たずに、普段着でお越しください。心よりお待ちしております。
川越キリスト集会について
川越キリスト集会は、聖書に表されたイエス・キリストによる救いを多くの方々に知っていただくために、福音(良い知らせ)をお伝えしています。
集会は、聖書のことばに基づきイエス・キリストを救い主と信じるクリスチャンの集まりです。
旧統一教会やエホバの証人、モルモン教などの新興宗教とは一切 関わりはありません。
この集まりは、今から2,000年ほど前イエス・キリストが十字架にかかった後に始まったもので、長い歴史を持っています。
当集会所はマンションの2階の一角にあり、集会の中が見えないため入りづらいと思いますが、少し勇気を出してお入りください。
献金を求めることは決してありません。入場退場も自由です。聖書も用意していますので何も持たずに気軽にお越しください。
川越キリスト集会の経緯について
川越キリスト集会は、1975年に東久留米キリスト集会から枝分かれして、川越の地に誕生した集会です。
1984年に川越市砂新田の地に集会所を移し現在に至っています。
当集会は、聖書の変わることのない教えに基づき、真面目に聖書のことばに仕える集会を目指しています。
○ 旧統一教会・エホバの証人・モルモン教とは関係ありますか?
世界平和統一家庭連合(旧統一教会)やエホバの証人、モルモン教とは一切関係ありません。
これらの宗教団体が聖書の一部を用いていることは知っていますが、独自の教えを持ち、それに合わせて聖書を利用していると思われます。
私たちの集まりは、聖書が真の神のことばと信じ、これ以外のものは使いません。その教えについても行動についても新興宗教とはまったく異なるものです。
○ どういうことをしているのですか?
毎週 日曜日には福音集会を開いて、聖書からまことの神の福音をお話しています。クリスチャンが聖書を開き、その中に記されているイエス・キリストの行われたことや語られたこと、そしてすべての人の救いのために十字架で死なれたことをお伝えしています。またイエス・キリストが今日の私たちとどんな関わりがあるのかを分かり易くお伝えしています。
集会の後には、ご質問をお聞きしたり、お話しする時間も用意しています。
○ どうして集会というのですか?
一般的にはクリスチャンの集まる所は「教会」と呼ばれております。しかし、私たちは聖書に記されている「エクレシア」ということばの意味をそのまま用いて「集会」を使用しています。エクレシヤという言葉は建物を意味するのではなく、集まる人々を指すからです。当集会はできるだけ聖書に本意に従いたいので「川越キリスト集会」にしています。
○ 教会とはどう違うのですか?
聖書は、クリスチャンはみな一人一人が神の家族と教えていますので、私たちの集まりでは、数名の兄弟方が聖書を学んだり、福音を話しています。聖書の教えにできるだけ忠実でありたいと望んでいますので、この集まりには牧師と呼ばれる人はいません。
また、私たちの集まりは、全国にある同じ考えに立つ集会とつながりを持ちながらも、それぞれ独立したものとして主体的に活動しています。
○ 集会に出席するにはお金が必要ですか?
集会の活動を続けていくには確かにお金は必要ですが、一般の方(未信者の方)からお金を受け取ることはありません。従って、初めて来られた方や未信者の方からお申し出があっても、お金をいただくことはありません。
集会の活動に必要なお金はクリスチャンが、聖書の理解と行動に基づいて、感謝の心に応じてささげられるものでなければ意味がありません。それは金額の大小ではありません。